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洗車センターの動画アップです [エッセイ]


キャンピングカーを貸した洗車場の番組2話目。
当然、キャンピングカーは出てきませんが、素早く洗車するタイムトライアル
やっています。

佐村河内 問題における作曲とは何か? [エッセイ]

佐村河内問題が世を騒がせている。実は私はこの問題が世に出なければ、彼の事を
まったくと言っていい程、知らなかったのである。
事件の概要はこうだ。
まず新垣隆という前衛的クラッシック音楽家が存在する。
彼は天才的技能を持ったピアニストのようだ。彼が、佐村河内のゴーストとなって
ほぼすてと言って良い楽曲を作曲したらしい。

佐村河内は聴覚障害者1級、被爆者2世、など様々な背景を持った天才という成り立ち
であった。しかし、彼はロック系のミュージシャンとしてきちんと活動を行っている。
プロというフィールドでだ。もちろんシンセサイザーなどで作曲も行っていたようだ。

今回、私が注視したのはこの佐村河内という人物が何故注目され、何故、売れたのか?
そして作曲とはつまり何か?という事を書きたいのだ。

「歌モノの作曲とはつまり何か?」
新垣氏が言っている通り、今回のフィールドはクラッシックである。
そして、それは実に低俗でつまらない、くだらない物であるから新垣氏はゴーストとして
作曲しても自分の名を乗せる事すらいやがったという説明である。
その論拠として使われた言葉が「調整音楽」だからという言葉だ。
この調整音楽については、広義の解釈があるので個々の解釈でいいと思う。
では、それら含む作曲とは何か?という事がポイントになってくるのである。
実際、佐村河内は、ロックやポップなら曲が書けるのだから。

「作曲とは」
作曲といってもめちゃくちゃ広義にあるので、単純に言えば作曲の3つの要素があれば
最低限度成立する。それは、リズム、メロディ、和音である。
これは実に面白い話で、実は、ポップロックミュージックに簡単だから置き換えると、
和音はコードであり、リズムとメロディは主旋律の音符を中心に構成される。
まぁぶっちゃけ簡単に言ってしまえば、アコギでコードを弾き鳴らして、歌えば
作曲なのである。

実際に、ロックポップで作曲をやりはじめるとダメな曲と、いい曲が自分の中でも出て
くるのだが、じゃあダメナ曲って具体的になんなの?というと、実はすごく簡単だ。
Cというコード(和音)伴奏で始まる曲で、構成音は(ドミソ)これのルートの音が
ドである。よく初心者にありがちなのは、ルートの音をひろいやすいので、メロに
使ってしまうのだ。そうすると多くの弊害がアレンジで出てくる。
実にくだらない音楽になってしまうのだが、これをやっちゃってる人は多いが、さすがに
プロはあまりいない。(意図的にやる場合がある)

くだらない話だが、ちょー簡単でダメな作曲法を書こう。
1楽曲の構成を考える Aメロ Bメロ Cメロ(例)×2
2コード進行を考える A16小節 B8小節 C16小節
3Aメロのコード進行とCメロのコード進行だけ同じにする
4リズムを決める、8ビート?16ビート?シャッフル?
5コードの構成音のルートからの音、Cコード ドからはじまるスケール、
 ドレミファソラシドのどこの音からメロの頭が始まるか決めて、音程にあうように作る。
6最後にAメロとサビであるCメロのスケールを音程だけ上げて整える。

これで終わりだ。
そう、才能もなにもいりません、普通に作曲できちゃうはずです。
ついでに言うと、そこに詩をあてはめていくのでAメロ4行 Bメロ2行 Cメロ4行
で、言葉は適当に一行5か7、つまり俳句のように指で数えて作っちゃってください。
はい、出来ました。いっちょあがりです。
2曲めからはキーコードやテンポや、行数、構成を工夫してノートに書けばいいです。
詩は俳句でも字あまりとかあるじゃないですか?テンポで言いたい事なんか詰めちゃって
くださいな。

新垣氏や、クラッシックな方々がおっしゃっている主旋律の根幹が浮き出る
なんの工夫も才能も感じられない音楽とは、こういった物である。
だからこそ、彼らは自分の名前で作曲なんか、恥ずかしくて言えないと言っている。

【ロック・ポップにおける作曲とは】
つまり、大多数におけるロック、ポップミュージックっていうのはこういった、才能
と無縁のどうでもいい手順で、いわゆる慣れによって行われる作曲である。
そこに、プロは研究し、カノン進行が日本人が好きだとか、ドミナントモーションは
プロっぽいとか、7THではじまるメロは、スケールを多く使えるのでメロ幅が出る。
とか、上の技法に足し算して研究してきた技法を織り込んでいるにすぎないのだ。
そりゃ音符を理解出来たほうがいいが、まったく理解出来ないでもかけちゃうのです。

音符がわかんない人は、とりあえず詩を俳句みたいに7、5で書いておいて
ギターじゃかじゃかやって、構成も詩でできてるはずなんで、歌ってみちゃえば?
たまに、最初のメロの音をギターの7THだとか、なんだとか工夫して鳴らしてみて
そこからはじめてみれば?
もうね?あっさりちゃんとした作品できちゃいますよ?

そんなレベルの音楽なんですよ。私もそうですが、作曲なんてこっぱずかしくて
言えたもんじゃないですよ。もう、どうでもいいレベルの話で、曲が天からふってきた!
とか、がきんちょの頃は真に受けたりするんですが、そんなわきゃないでしょ?
知識と熟練の中で構成して、調整してるだけなんですよね。
それを世界中のどこの国の人も聞いて、大感動しちゃうんですね。
もう、嘘だと思うならビートルズあたり研究してみてください、構成や、
和音であるコードをどう使い、どういうふうに調整したらそうなるか、1年くらい
ノートにメモでもしてりゃわかると思います。
まぁ、それは最低限の知識が必要となりますが、音符くらい読めればできますよ?
で、この音符が読めるって話と、楽典が読めるってぜんぜん違う話なんですよね。

絶対音感!!!なんて言葉が乱れ飛んでおりますが、ある!って断言する人、
クラッシックの交響曲聞いて、全パートの音符ひろえるかやってみ?
できるわきゃないですから、そんなあなたに絶対音感なんかないんですよ。
で、主旋律のメロなんかを音符で理解する程度の僕が言ってみます。
どれみふぁそらしどー、それに#や♭、そこからの展開、程度理解できたらいいんです。
佐村河内は、絶対音感があって脳内で交響曲が作れた!
これは、鼻歌で作曲したメロが最高!!俺天才!っていう調整前の3要素の1個か2個
をあやしくクリアしてるかどうかもわかんない時点で、曲作った!
これにコード付けてくれ!って言ってる迷惑な人と同じレベルなわけです。

よく、バンドやっていると時々、そういう人がいるんですね。
鼻歌やアカペラでめちゃくちゃな調整前のテープよこして、【俺の曲にコードつけてくれ!】
っていう人や、バックのアレンジガッツリ決め込んで【構成】だけ、つまりカラオケ
だけ作って、【俺の曲にコードつけてくれ!】っていう人が。
作曲の最低3要件は満たして、作曲って言いましょうよねと。
だけどその要件満たしても、クラッシックなお方がおっしゃる通り、作曲なんて
言えたレベルのモンじゃないんです、ロックやポップなんて。
構成と技法の積み重ねで、ちょこっと作ってるレベルですからそれ。

【佐村河内問題の本質】
絶対音感に作曲概念、これらの幻想を見事にぶっ壊してくれちゃった彼なんですが、
だって、新垣氏の作った音楽はゴーストでも素晴らしいじゃないか?
って言いたい人が必ず出て来ちゃうんですよね。
素晴らしくもなんともないんです、本人やわかってる人にとっては。
だってそれ、マーラーや他の過去の大作曲家の構成までちょこっと変えて、技法を使い、
調整しただけの音楽なんですもの。
そりゃ恥ずかしくて俺が作曲したすんばらしい音楽なんですなんて言うわけがない。

なんだって良いと思って、感動した人がいるんだからいいんじゃない?
そう言う人もきっといます。
果たしてそうなの?それって本気で言ってる?大抵の場合は【自分に嘘をついている】
人なんですよ、そういう人も。
佐村河内というキャラクターを持ち上げたメディアがいて、絶対音感で曲を書く、
耳のまったく聞こえない、ドラマチックな背景があって注目されて感動したんです。

ロックやポップはどうでしょ?
その曲に詩がなかったら?メディアが一切後押しせずに、背景もキャラも顔もわからず
ドラマやCMの主題歌にもならず、アコギ一本で詩もなく、うーうーるーるーって言って
るだけだったら?
その曲を良いって思うんですか?
違うでしょ?
ロックミューシャン的なかっちょいい人生的背景や、キャラ、そこにマッチした歌詞。
その雰囲気にマッチしたアレンジ、ポップなら自分の思い出とリンクする歌詞や、
映像とのコラボや、そのアーティストの背景があってこそ成立するのがヒット曲です。

佐村河内は、音楽業界の夢もへったくれもない縮図を見事にさらしだし、
僕ら一般人の低俗な耳を勘違いさせ、少年達の夢を奪い、自己陶酔と勘違いうずまく
作曲家とかいう自称な人々が頑に隠して来た真実を表にだしちゃったわけです。

否定的に記載していますが、【ロックは生き方だ】【パンクは思想だ】とか、
みなさんも聞いた事ありますよね?演歌なお方は、キャラの人生が!!!!深みが!!
って演じる方を褒めちぎりますよね?
誰だって、一個や二個、忘れられない人生にかかせない曲の1フレーズに感動した
事ありますよね?でも、それって【詩】じゃないすか?
そしてそのアーティストの外見から生き方、人生を語らないファンって存在します?

ここまでは本音ですが、ここからは私見です。
作曲なんてモンはエッセンスなんですよ、ロックやポップにとっては。
もしくは、勉強してコードから調整してるだけのモンです。
ほぼ、構成は詩で決まるか、曲の構成に詩をあてはめるんですね。
で、大事なのは実は作詞なんじゃねえの?って話です。

実際、作詞さえすんばらしけりゃ、後は理論や理屈なんかどうでもなったりしてる
曲って多いすよ?言葉がメロを生み出すような、メロと言葉がマッチした曲つうのは
なんというか、すんなり歌詞が入ってきちゃって感動しちゃうわけですよね。

佐村河内つうのは、クラッシックで言われるところの、過去技法の踏襲なんか
こっぱずかしくてできねえよ?っていう天才ばかりいる、ガッツリ音楽をお勉強した
方々の世界で、ロックやポップ程度の作曲レベルや音楽知識しかない、このおっさんが
新垣さんって人を得て、ちょこちょこと遊びレベルで新垣氏が作った楽曲を出したと。
双方最低ではありますが、これをメディアに乗っけてわかって仕組んだバカも
罪深いですよね。

コイツが出てこない限り、俺は絶対音感がある!って勘違い出来た人もいたかもしれない
し、胸を張っておれは作曲やってんだ!って言えた人もいるかもしれないし、
すんばらしい曲だ、って感動を勘違いした罪もない人に嫌な思いさせることもなかったの
かもしれないですよね。

え?私ですか?俺は関係ねえよ!ロックは魂だ!派であります。
そうなんです、本物のそうでしか生きられなかった奴らのシャウトを聞きたがる
おっさんです。曲?そんなもん、上に書いた通りだが、しらねーよ。
自分が作曲家だと思わないけど、ロッカーではあり続けたい。そういうこと。

早朝の庭で [エッセイ]

asaniwa1.jpg
最近は早起きだ。
恥ずかしい話だが、腰を痛めてしまいキャンプに行けない日々が続いている。
新しく買ったナイフや、一度しか乗っていないカヤックをひっぱり出しフィールド
へ向かいたいし、よく行くキャンプ場周辺の山々の林道へもバイクで行きたいという
思いがつのる。

今日はいい天気だ。
雲一つない青空が広がっていると、よけいにうらめしい気持ちになる。
ベットから腰に気を使いながら起き上がると、あれこれ考えてみた。
買ったばかりのネイチャーストーブを庭で使いたいし、焚き付けを作るのにナイフを
試せるな。まだ初夏とはいえ、朝5時の気温は肌寒い。こんな朝はたき火でも楽しみ
ながらスベアでコーヒーでも湧かして飲みたい。
そういえば我家の庭には枯れ木が一本、他の木が碧く生い茂る生命の季節を謳歌して
いる中、淋しげに棒にでも変化したかのように立っている。
そのまわりには、ちょっとした枝がそこかしこに落ちていたはずだ。

階段を降り、玄関脇の倉庫を開けると木製の小さいテーブルがひとつ、折りたたみの
椅子が一脚。そいつを庭に広げ、スベアとパーコレーターを用意した。
小さな庭の枯れ木のまわりには、まめで綺麗好きすぎる妻がきっちりと掃除や庭整備を
行っていて、すでに燃やせる枯れ木などなかった。あきらめきれずに枯れ木にしがみ
つくように細く伸びた小枝を手で折って見る。
パキパキといかにもすぐにでも燃えそうな水分もない風体で折れて行く。
しかし、とてもとてもたき火にした所ですぐにでも燃え尽きてしまいそうな量で、
試すという迄もいかない量と、細さでしかなかった。

ひとつため息をつきながら、テーブルの上に使い道を失ったナイフを置き、ケースから
スベアを取り出す。ガソリンストーブはプレヒートが必要だ。
ホワイトガソリンをスベアのくぼみに注ぎ、火をつけると勢い良く小さなストーブが
燃える。ある程度炎が小さくゆらめくようになってから、ゴトクのケースをかぶせ、
点火すると気温もあいまって勢いよい独特と音を立て、青白い炎をあげて点火した。
パーコレーターをスベアの上に乗せ、煙草に火を付けた。

早朝の少し冷めた空気と、ひしめき合う住宅街の狭い庭から見上げる空。
それぞれの屋根の下ではまだ寝ているのか、それとも朝の忙しい喧噪が個々はじまって
いるのか。それにしても今日の空は青い。
都会の中とは言え、木々が生い茂る住宅街の環境の中、自分家の庭でこうしていると
鳥のさえずりや朝独特の空気感が漂っている。
行っている事はキャンプ場の朝となんら変わりがないわけなのだから、後は眼に映る
物に閉塞感を伴うくらいだ。
asaniwa2.jpg
パーコレーター独特のコーヒーの甘い匂いが漂い、スベアの盛大な燃焼音が安定して
くると、コーヒーに変化した水がパーコレーター上部のノブから跳ね上がる。
もう出来てしまったか、と少し残念に思うのは何故だろう?
過程を楽しむのがアウトドアならば、目的としてコーヒーを飲むという楽しみは?

コーヒーをカップに注ぎ、もう一本煙草に火をつけた。
スベアの音が消えた世界は静寂だ。
耳をくすぐる鳥のさえずりと、時間の経過とともに少しずつ上昇する空気の温度。
目を閉じてみるとまるでキャンプ場にいるような錯覚を覚える。
閉鎖された自然空間という感じの庭の中で、もう一度高い空を見上げた。
そういえばあの空は地球のどこにでもつながっているのだ。
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